日本という国
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166しかし、「藤原道隆」は長徳元年(995年)4月に43歳で亡くなり、関白には「定子」の叔父(「道隆」の弟)「道兼みちかね」がつく。「道兼」も7日後に疫病に倒れ、同じ叔父(「道兼」弟)「道長みちなが」に政権が移る。「道長」は、「源氏物語」の作者「紫式部」が仕えた中ちゅう宮ぐう「彰しょう子し」の父。 次の年の長ちょう徳とく2年正月、「伊周・隆家」兄弟が花か山ざん天皇(「道兼」にあざむかれて退位し、出家)に不敬を働いたとして、地方に下され、「中の関白」家は没落する。 「定子」は、後見の父を亡くし、頼みとする兄弟も都を追われ、後ろ盾をなくす。それでも、一条天皇の寵愛は変わらず、兄「伊周」らが左遷された同じ年の12月に第一だいいち御子みこが生まれ、その後も二人の御子が誕生した。 しかし、一家の悲運に遭った「定子」は、「道長」の娘「彰子」が入内し、中宮になるの に伴なって皇后となり、最後は下級官吏の邸やしきに身を寄せた。 そして、2年(1000年)12月16日、第三だいさん御み子この出産の後、25歳で亡くなった。遺言によ り火葬は行われず、鳥とり辺べ野の(平安時代の埋葬地)への葬送の夜は降りしきる雪が「定子」の 棺を覆ったという。 「清少納言」は、宮仕えをした7年の間に、「中の関白」家が権勢を上りつめ、急速に没落する中で、「定子」に仕えた。 「紫式部」は、「清少納言」が宮仕えをやめた数年後の1005年頃、中宮「彰子」に仕えた。 ~ [内容]~ 「枕草子」の文章は、長短さまざま。約300段あるが、次の「三つ」に分類される。 ① 「清少納言」が宮仕えをしていた間の出来事を記した「日記的章しょう段だん」 「清少納言」の体験に基づいた宮中での生活がほとんどだ。 「清少納言」は、華やかで理知的な「定子」の後こう宮きゅう(宮中の奥の方にある皇后、妃などが住む館やかた)の中で生き生きと活躍する。 「定子」周辺は社会の状況に関わりなく機知を重んじ、華やかさを失っていない。「定子」と「清少納言」の個性が反映している。 ② 「~は」、「~もの」という書き出しで、類似したものや事柄を 挙あげていく「類るい聚じゅ的てき章段」(類聚=同じ種類のものを集めること) 「~は」という形式では、「山は 」、「虫は 」などのように、テーマを決めて、その後に、それぞれについての名前を列記して、その善よし悪あしを評価する。 「~もの」も同じ形式だが、「~は」が具体的な事物を中心にしているのに対し、「にくきもの(憎にくらしいもの)」、「うつくしきもの(可愛らしいもの)」など、抽象的、主観的なテーマを取り上げて、それが、なぜ憎らしいか、なぜ可愛らしいか、を述べる。 「類聚的章段」は、作者の価値判断の集大成だ。

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