日本という国
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173シェイクスピア研究家の個人授業を受け、文学論を執筆し、1903年1月に帰国した。 37歳の時、東京帝国大学英文科の初の日本人講師となり、英文学形式論などを教えた。 しかし、留学中にかかった神経衰弱の再発に悩み続けた。 39歳の1905年(明治38年)1月、「吾輩は猫である」を正岡子規主しゅ宰さいの俳句雑誌「ホトトギス」に発表。たちまち評判を呼んだ。 40歳の時、「坊っちゃん」を発表。 41歳の1907年(明治40年)4月、招かれて朝日新聞社に入社。「文芸の哲学的基礎」を27回にわたって朝日新聞に連載、その後、「虞美人草」、「三四郎」、「それから」、「門」、「彼岸過迄」、「道草」などの作品を同紙に発表した。 50歳になった1916年(大正5年)5月、胃い潰かい瘍ようや糖とう尿にょう病びょうなどに苦しみながら、「明暗」の連載を始めたが、12月9日に死去。「明暗」は、「漱石」の死後も5日続いたが、未完のまま12月14日に188回で終わった。 『吾輩は猫である』の冒頭 吾輩は猫である。名前はまだ無い。 どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た事だけは記憶して居る。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くと、それは書生という人間中で一番獰どう悪あくな種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕まえて煮て食らうという話である。しかし、その当時は何という考えもなかったから別段、恐ろしいとも思わなかった。ただ、彼の掌てのひらに載せられてスーと持ち上げられた時、何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ち付いて書生の顔を見たのが所謂いわゆる人間というものの見始めであろう。この時、妙なものだと思った感じが今でも残って居る。第一、毛をもって装飾されべき筈の顔がつるつるして、まるで薬や缶かんだ。その後、猫にも大分逢ったが、こんな片かた輪わには一度も出くわした事がない。のみならず、顔の真ん中が余りに突起して居る。そうして、その穴の中から時々ぷうぷうと烟けむりを吹く。どうも烟むせぽくて実に弱った。これが人間の飲む烟草たばこというものである事は漸ようやくこの頃知った。

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