日本という国
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174 《坊ちゃん》の冒頭 親おや譲ゆずりの無む鉄てっ砲ぽうで小供の時から損ばかりしている。小学校にいる時分、学校の二階から飛び降りて、一週間程腰を抜かした事がある。なぜそんな無む闇やみをしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫や~いと囃はやしたからである。小こ使づかいに負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして、二階位から飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。 親類のものから西洋製のナイフをもらって綺麗な刃はを日にかざして、友達に見せていたら、一人が光る事は光るが切れそうもないと云った。切れぬ事があるか、何でも切って見せると受け合った。そんなら君の指を切って見ろと注文したから、何だ指ゆび位ぐらい、この通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。幸い、ナイフが小さいのと、親指の骨が堅かったので、今だに親指は手に付いている。しかし、傷きず痕あとは死ぬまで消えぬ。 ◆ ◆ ◆ ◆ [二・森もり 鷗おう外がい] 「森鷗外」は文ぶん久きゅう2年(1862年)、現在の島しま根ね県けん津和野つわの町ちょうの医者の家に生まれた。 本名は「森林りん太た郎ろう」。文芸全般に造詣が深く、洋学・漢学のほか医学の知識を持った教養人だった。 歴史小説だけでなく、翻訳や評論、・創作・批評なども手がけた明治文壇の重じゅう鎮ちんである。大正11年(1922年)、60歳で亡くなった。 19歳で東京大学医学部を卒業、陸軍軍医となり、明治17年(1884年)から明治21年(1888年)までの足掛け5年、医学研究のため、ドイツに留学した。この時の体験が、処女作「舞まい姫ひめ」の題材になっている。 留学後約5年間、医学誌の発行に携たずさわった。 29歳で医学博士となった。明治40年(1907年)、45歳の時、軍医総監に任ぜられ、陸軍省医務局長になる。 その後の10年間は、創作、評論、翻訳、随筆、研究、考証と多方面に目ざましい業績を残し、「鷗外」の「豊熟の時代」と言われる。 「うたかたの記き」、「雁がん」、「山さん椒しょう大だ夫ゆう」、「阿部あべ一族いちぞく」、「高たか瀬せ舟ぶね」など多くの名作がある。 また、ドイツの詩人・ゲーテの劇詩「ファウスト」などを翻訳し、デンマークの小説家・アンデルセンの長編小説「即そっ興きょう詩し人じん」の翻訳は、翻訳文学の傑作とされている。

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