日本という国
179/235

175《山椒大夫》の冒頭 越えち後ご(注)の春日かすがを経て今いま津づへ出る道を、珍しい旅人の一ひと群むれが歩いている。 母は三十歳をこえたばかりの女で、二人の子供を連れている。それに四十ぐらいの女中が一人ついて、くたびれた同胞はらから(注)を、「もうじきにお宿にお着きなさいます」と言って励まして歩かせようとする。二人の中で、姉あね娘むすめは足をひきずるようにして歩いているが、それでも気が勝っていて、疲れたのを母や弟に知らせまいとして、おりおり思い出したように弾力のある歩きつきをして見せる。 近い道を物もの詣まいりにでも歩くのなら、ふさわしくも見えそうな一群れであるが、笠や杖やら、かいがいしいいでたちをしているのが、誰の目にも珍しく、また気の毒に感ぜられるのである。 道は百ひゃく姓しょう家やの断えたり続いたりする間を通っている。砂や小石は多いが、秋あき日び和よりによく乾いて、しかも粘土がまじっているために、よく固まっていて、海うみのそばのように、踝くるぶし(注)を埋めて人を悩ますことはない。 藁わら葺ぶきの家が何軒も立ち並んだ一ひと構かまえが柞ははその林に囲まれて、それに夕日がかっと差している所を通りかかった。 「まあ、あの美しい紅葉をごらん」と、先に立っていた母が指さして子供に言った。 子供は母の指さす方を見たが、なんとも言わぬので、女中が言った。「木の葉があんなに染まるのでございますから、朝晩お寒くなりましたのも無理はございませんね」 姉娘が突然、弟を顧かえりみて言った。「早くおとう様のいらっしゃる所へゆきたいわね」 《注・越後=現在の新にい潟がた県けん。 同胞=兄弟姉妹。「どうほう」と読む時は、「同じ国民」のこと。 踝=足首の関節の両側の突とっ起きしたところ》 ◆ ◆ ◆ ◆ [三・島しま崎ざき 藤とう村そん] 「島崎藤村」は明治5年(1872年)、長なが野の県けん木曾きそ郡ぐん山口やまぐち村むら馬ま籠ごめ(現在、岐ぎ阜ふ県けん中なか津つ川がわ市し)の本陣・問屋・荘しょう屋やを兼ねた旧家に生まれた。本名は「島崎春はる樹き」。 日本が近代化の道を歩んだ明治、大正、昭和の三代にわたって、自然主義文学の代表作家として活躍。昭和18年(1943年)に71歳で亡くなった。 「島崎藤村」は明治学院を卒業後、「女学雑誌」に翻訳を寄稿したり、明治女学校の教師をしたりして、21歳の時、「文学界」の創刊に加わり、自分の感情や情緒を表現する「抒情詩人」としてスタートを切った。 作品は、詩集「若わか菜な集しゅう」、「夏なつ草くさ」、「落らく梅ばい集しゅう」、紀行感想集「千ち曲くま川がわのスケッチ」のほか、日本の歴史文学の屈指の傑作と言われる小説「夜明よあけ前まえ」、日本の自然主義文学運動の起点と評される「破は戒かい」など、広範なジャンルに及んでいる。

元のページ 

page 179

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です