日本という国
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181春やこし 年や行けん 小こ晦つご日もり 以来、51歳で死を迎えるまでに「芭蕉」が詠んだ俳句は928句。 同じ江戸時代の俳人、「与よ謝さ蕪ぶ村そん」の2,782句、「小こ林ばやし一いっ茶さ」の2万余よ句くに比べると、極端に少ない。 蕉しょう風ふうと称される「芭蕉」独自の俳諧の出発点は、貞じょう享きょう元年(1684年)、41歳の時の帰郷の旅立ちだった。 亡くなるまでの11年間に業績が集中している。 この旅立ちは、一般に「野ざらしの旅」と呼ばれ、「野のざらし紀き行こう」、「冬ふゆの日」という作品を生んだ。この時の句が次の句だ。 野ざらしを 心に風の しむ身み哉かな 「芭蕉」の20代は不明な点が多く、句も少ない。 「松尾芭蕉」は、故郷の上野で2歳年長の「藤とう堂どう良よし忠ただ」に仕えたことが契機となり、俳諧と出遭う。 「藤堂良忠」は俳号を「蝉吟せんぎん」といい、「北村きたむら季き吟ぎん」(国学者。俳人)の門下生。「北村季吟」の師は、貞門ていもん風ふう俳諧の祖である江戸時代初期の「松まつ永なが貞てい徳とく」(国学者。俳人)。 貞門風俳諧は、俗語や漢語などを用いて言語上の遊びを主とする俳風で知られ、芭蕉の俳諧の出発点となった。 「芭蕉」は「藤堂良忠」の没(1666年)後、無断で故郷を離れ、京に上り、禅宗の寺院などで修行を重ねた。 この頃の心の内は、 暫しばらく学まなんで 愚ぐを暁さとらん事ことを 思おもへと (少しの間、学問を学んで、自分の愚おろかさを知ろうと思ったが) という記述や、「幻げん住じゅう庵あんの記き」の 一ひとたびは 仏ぶつ離り祖そ室しつの扉とびらに 入いらむとせしも (一度は俗世間を離れ信仰や仏道に入ろうとはしたが) という「芭蕉」自身の述懐から知ることができる。 同時に、「芭蕉」はこの時期は、 進んで人にかたむ事をほこり (進んで人に勝つことを自慢して) 身を立てむ事を願ったり (立身出世を願ったり) ある時は、仕し官かん懸けん命めいの地をうらやみ (ある時は、主君に仕え俸ほう禄ろくをもらうことに心引かれた) という心境にもなったらしい。 恩人、「藤堂良忠」の若き突然の死による失意、出しゅっ奔ぽん、放浪、試行錯誤という若き日々の不安と苦悩など、「芭蕉」の内面を垣間見ることができる。

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