日本という国
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182 自分の行く道を定めかねたのも、「芭蕉」の心の中に、 風ふう羅ら坊ぼうと言ふ。誠にうすものの 風に破れやすからん (さまよっている風来坊と言う。本当に薄いもので、 風にあったらすぐ破れてしまいそうな) という不安があったからだ。 そして、「芭蕉」自身、「狂きょう句くを好むこと久しき」という性格から、 つひに生涯のはかりごととなす (ついに一生涯の仕事とする) 決意を固めたのである。 寛かん文ぶん12年(1672年)、同好の人々と語らい、三十番の発ほっ句く合あわせをした。 それに、「芭蕉」が判はん詞じ(句の優劣を評した詞ことば)を加えた「貝おほひ」を故郷・上野の天満天神社へ奉納し、俳諧の宗そう匠しょうとして世に出ることを願って江戸へ下った。29歳だった。 その覚悟とは程遠く、芭蕉にとって現実は厳しく、思うに任せぬ日が続いた。しかし、精進努力の結果が次第に世に受け入れられるようになった。 枯かれ枝えだに 烏のとまりたるや 秋の暮 あるいは、 野の分わきして 盥たらいに雨を 聞く夜哉かな などの名吟を発表するにつれ、俳壇での地位を確固たるものにしていった。 天てん和な3年(1683年)、漢詩的な表現などに特色を見せる其き角かくによる「虚みなし栗ぐり」が上じょう梓しされるに及んで、蕉門派(芭蕉の一門)は江戸俳壇の主流の観を呈するまでになった。 「虚栗」の俳句について、「芭蕉」は、李り白はく、杜と甫ほ、寒かん山ざん、西さい行ぎょう、白はく楽らく天てんらの詩趣を具そなえていることを誉めている。 「奥の細道」の冒頭「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」が、「李白」の「春夜宴桃李園序(しゅんや とうりのそのに えんするのじょ)」を踏まえており、続く「古人も多く旅に死せるあり」の「古人」を考え合わせると、「李白」以下の人々が、「芭蕉」にとって敬慕して止まなかった和漢の詩人であったことが分かる。 しかし、この「虚栗」調も芭蕉俳諧が更なる新風へ展開する過渡的なもので、芭蕉は絶えず「新あたらしみ」を追求していた。 そのことは、弟子でしの「服部はっとり土ど芳ほう」の 亡ぼう師し常つねに願いにさせ給ふも 新しみの匂ひ也なり という証言からも明らかで、「芭蕉」自らも「古人の跡を求めず、古人の求めるところを求めよ」(許六きょりく離り別べつの詞ことば)と書いている。 「去きょ来らい抄しょう」で、 かりにも古人の涎よだれを なむる事なかれ (たとえ一時的にもせよ、先人のよだれをなめるようなことをしてはならない) と、教えさとした。 (注・「去來抄」は、弟子の「向むか井い去きょ来らい」が「松尾芭蕉」からの伝聞でんぶん、蕉門での論議、俳

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