日本という国
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187 [三・石いし川かわ 啄たく木ぼく(歌人)] 「石川啄木」は明治19年(1886年)、現在の岩手県玉山村たまやまむらで生まれた。翌年、渋しぶ民たみ村むら(現在、盛もり岡おか市し玉山区渋民)に移り、幼少年期を過ごした。 17歳で上京するが、生活は苦しく病気になり、4カ月で帰郷。 18歳の時、5編の詩が文芸雑誌「明みょう星じょう」に掲載され、詩人として注目を浴びた。 19歳で再度上京するが、21歳で帰郷。母校・渋民小学校の代用教員となる。 しかし、1年後に北海道に渡り、函館はこだて、札さっ幌ぽろ、小お樽たる、釧くし路ろを転々としたが、生活に満足できず、23歳でまた上京。苦しい中で、歌を作ることが多くなった。 24歳の時、朝日新聞社に校正係として就職。25歳の9月、朝日新聞の歌壇の選者になった。生活は依然苦しく、26歳の時、慢性腹膜炎で入院し、病状は一進一退を繰り返す。明治45年(1912年)の元日の日記に「またしても苦しい一年を繰り返さねばならぬかと思うと、今まで死なずにいたのを泣きたくもあった」と書いた。 啄木はその年の3月、27歳の若さで世を去った。 代表的な歌集は「一いち握あくの砂すな」と「悲かなしき玩がん具ぐ」。二つの歌集の歌は全部で745首。 「石川啄木」は、「一利己主義者と友人との対話」の中で、自分の歌について、次のように述べている。 「一生に二度とは帰って来ないいのちの一秒だ。おれはその一秒がいとしい。ただ逃してやりたくない。それを現すには、形が小さくて、手間暇のいらない歌が一番便利なのだ。実際便利だからね。歌といふ詩形を持ってるといふことは、我々日本人の少ししか持たない幸福の一つだよ。おれはいのちを愛するから歌を作る。おれ自身が何より可愛いから歌を作る」。

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