日本という国
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022度が高く、「狂きょう乱らん物価」と呼ばれるほど物価が高騰した。労働組合が要求した賃上げが製品価格の値上げにはね返り、商品の売れ行きが落ち込んだ。 不況下で、生産物や労働力の供給過剰が進み、一方で物価が上昇した。 そこで、当時の日本経営者団体連盟(日経連)は、1976年の賃上げ率を一ひと桁けた台だいに抑おさえ、労働組合側も協力した。さらに、産業界はエネルギーを節約する「省エネ」に努力し、コストの上昇を最小限に抑えた。自動車業界は少ないガソリンで走る「低てい燃ねん費ぴ」の乗じょう用よう車しゃをつくり、ガソリンの価格上昇に苦しむアメリカ市場に歓迎された。 日本がどの国よりも早く「石油危機」を切り抜けたのは、省エネなど経営者の努力と、賃金抑制に協力した労働組合の忍耐の結果だった。 日本の経営者は、アメリカの経営者のような莫ばく大だいな報ほう酬しゅうをもらわず、良好な労使関係に支ささえられて、高度成長期には、日本人の9割近くが中流意識を持つ「一億総中流社会」が形成された。 「バブル経済」とその崩壊ほうかい 「日本経済」は、1973年と1979年の「石油危機」も、1971年と1985年の「円高」も乗り越え、1980年代後半から「バブル経済」と呼ばれる好景気を迎えた。 日本企業の国際競争力は群ぐんを抜ぬき、日本の商品は世界市場を支配する勢いだった。 しかし、日本の貿易収支の黒字が膨張する一方で、アメリカの貿易赤字が膨ふくれ上あがり、貿易をめぐる日米対立が激しくなった。アメリカは日本に対して、「外国に輸出するより、日本の内需拡大」を要求し続けた。 日本は、外国に対して激しい輸出攻勢をかけながら、一方で、輸入にはさまざまな規制による障しょう壁へきを設けたため、アメリカでは「日本たたき」が激しくなった 日本は貿易黒字の増大に伴って「円高」が進み、その結果、輸入が増えて国産品を圧迫した。一方で、輸出型産業は「円高不況」に苦しんだ。 政府・日本銀行は内需拡大を旗はた印じるしに低金利政策を進めた結果、今度は国内に「カネ」がだぶつき、企業や人々は「土地買い」と「株買い」に走り、投機の色合いが濃い「バブル経済」の時代に入った。 「バブル」景気で、表面的に景気は大いに盛り上がった。そして、人ひと手で不ぶ足そくになり、外国人労働者が増え、労働力確保のため、企業によっては「60歳の定年」を65歳に引き上げた。大学卒業生は企業から“引っ張りダコ”で、賃金も毎年5%前後上昇した。 「バブル」の好景気は1990年に頂点に達した。「土地」と「株式」に対する過剰な投機熱が冷めると、急速に資産価値が収縮し、企業の倒産や金融不安が続いた。 膨ふくらんだバブル(泡)がはじけるように、「バブル経済」は崩壊した。 「地価」と「株価」の異常な高騰に支えられた「バブル景気」が1991年2月に終わると、「日本経済」は低迷期に入った。 1997年には、大手金融機関の「北ほっ海かい道どう拓たく殖しょく銀行」と「山やま一いち証券」が破は綻たんし、金融恐きょう慌こう

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