日本という国
74/235

070 ◇「大和やまと政権せいけん」と「古こ墳ふん時代」◇ 鉄製の農具や武器の生産が盛んになり、稲の収穫も増え、豊かになったそれぞれの国は、互いに争い、次第に強い国によって統一された。 3世紀から4世紀にかけて、大和地方(今の奈良県)とその周辺の有力な支配者である豪族たちは大和政権をつくった。大和政権は、「倭わ国こく」(日本)の「大王(おきみ)を天皇として擁立し、4世紀後半から5世紀までに、関東地方から九州中部までほとんどの豪族を従えた。わが国最初の統一政権が大和やまと朝ちょう廷ていだ。 中国・朝鮮との外交は、大和朝廷が中心になって行った。 5世紀には中国の漢字が使われ、漢字の「音おん」で日本人の名や地名を書き表した。 6世紀には、中国・朝鮮半島を経て、儒じゅ教きょうの書物や仏教の教典、さらに仏像が伝えられた。朝鮮半島では高こう句く麗り・百済くだら・新羅しらぎが勢力を持ち、中国では581年に隋ずいが支配した。 4世紀初頭に作られた大きな墓はかを古こ墳ふんという。地方の豪族ら有力者をまつる墓だったが、次第に王の権威や勢力の強さを示すものとなった。 中国や朝鮮と同じ円えん墳ぷん《土を半はん球きゅう形けいにまるく盛った墓》や方墳ほうふん《土を四し角かくに盛った墓》もあるが、西日本を中心に大規模な前ぜん方ぽう後こう円えん墳ふん《前が四角形で、後がまるい墓》が多く作られた。 3世紀後半から7世紀までの約400年間を「古墳時代」と呼ぶ。 ◇「飛鳥あすか時代」と「聖しょう徳とく太たい子し」◇ 仏教は、「飛鳥あすか(今の奈良県・奈良盆ぼん地ち)」にあった朝廷の保護を受けて発展し、飛鳥文化として栄えた。6世紀末から7世紀前半までを「飛鳥あすか時代」と呼ぶ。 「大和政権」をつくった豪族たちは土地や農民の支配をめぐって激しく対立し、政情不安が高まった。 最初の女帝として即位した推すい古こ天てん皇のうは592年、甥おいの「聖徳太子」(574年~622年)に、国政の改革を担当させた。「聖徳太子」は、中央の豪族の主導権争いを鎮しずめるため、天皇中心の中央集権国家を目指した政治改革を行った。 「聖徳太子」は、603年に「冠かん位い十じゅう二に階かいの制せい」を定め、604年に「十じゅう七しち条じょう憲けん法ぽう」を制定した。 「冠位十二階の制」は、朝廷内の地位をはっきりさせるため、「徳とく・仁じん・礼れい・信しん・義ぎ・智ち」の六つを、それぞれ大と小に分けて「十二階」とし、冠かんむりの色を「紫、青、赤、黄、白、黒」と濃淡のうたんで区別した。各人の才能や功績に応じて冠かん位いが決められ、後に、中央・地方の役人に与えられた位い階かい制せい度どの起源となった。 「和わを以もって貴とうとしとなし」に始まる「十七条憲法」は、仏教を敬うやまうこと、国家の中心としての天皇に服従すること、を強調した。 中国の「隋」と国交を開き、607年には廷てい臣しん(朝廷に仕える者)・小野おのの妹いも子こを遣隋使として中国に派遣し、中国文化を導入した。多くの留学生や学問僧が同行し、後の「大たい化かの改かい新しん」などの改革に大きな役割を果たした。

元のページ 

page 74

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です