日本という国
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072聖しょう武む天皇(在位724年~749年)の招きで日本に来た「唐」の高僧・鑑がん真じん(688年~763年)らが、戒律かいりつの普及や仏教の発展に大きく貢献した。「鑑真」は日本への渡航に何度も失敗したが、日本に戒律を伝える意志を貫つらぬき通した。失しつ明の身となり、教典と仏像を携たずさえて日本に来たのは、67歳の時だった。 「鑑真」は、奈良の唐とう招しょう提だい寺じを創建した。 「奈良時代」に栄えた高度な貴族文化は、聖しょう武む天皇時代の元号から「天てん平ぴょう文化」という。この時期に、歴史書「古こ事じ記き」、「日に本ほん書しょ紀き」や地誌の書「風ふ土ど記き」などが作られた。 「奈良時代」までの和歌・約4,650首を集めたのが「万まん葉よう集しゅう」だ。 ◇「遣けん隋ずい使し」と「遣けん唐とう使し」◇ 朝廷が中国文化を輸入するため、7~9世紀に、日本から「隋ずい」や「唐とう」に公こう式しきの使し節せつを派は遣けんしたのが「遣隋使」、「遣唐使」だ。留学生や留学僧など、多い時は約500人も派遣された。 「隋」は中国大陸を統一した大国。607年の「遣隋使」が第一回で、小野おのの妹いも子こ(飛鳥あすか時代の政治家、外交家)が「聖徳太子」から「隋」の王様宛の手紙を預かって、海を渡った。 「隋」が619年に滅びたため、「遣隋使」は614年が最後となり、いったん休止した。 その後、「唐」が建たったので、「遣唐使」が630年から始まった。 「遣唐使」は、約260年間、続いたが、「唐」の衰すい退たいや「航海の危険」を理由に、894年(寛かん平ぴょう6年)に廃止された。 ◇「平へい安あん時代」と「摂せっ関かん政治」◇ 「奈良時代」に「天てん平ぴょう文化」が栄えたものの、皇族や貴族の勢力争いで政治が乱れた。 桓かん武む天皇は政治を立て直すため、794年(延えん暦りゃく13年)に今の京都に平へい安あん京きょうを造営し、そこに都を移した。 794年からの「平安時代」は約400年間続いた。 仏教界にも新しい動きが起こり、唐に渡った僧侶、最さい澄ちょうと空くう海かいは帰国後、天てん台だい宗しゅうと真しん言ごん宗しゅうを開いた。 9世紀に入ると、藤ふじ原わらの鎌かま足たりの子孫である「藤原氏」一族が天皇の権威と結びついて、勢力を伸ばした。 当時の貴族社会では、天皇の外がい戚せき(母方ははかたの親しん類るい)であることが重要視された。藤原氏は代々、天皇の外戚となり、天皇が幼い時は摂せっ政しょうとして、天皇が成人すると関かん白ぱく(天皇を補佐する重職)として、政治の実権を握った。 10世紀後半から11世紀頃、藤原氏が天皇に代わって行われた政治を「摂関政治」という。

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