日本という国
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074「中世」二節= ◇「鎌かま倉くら時代」と「武ぶ家け政治」◇ 「平へい氏し」による政権は、長くは続かなかった。 「政治は少しも変わらない」という不満が広がり、「源みなもとの頼より朝とも」(1147年~1199年)や「源みなもとの義経よしつね」らが「平氏」打倒に立ち上がった。 「頼朝」の支配権は全国に及び、1192年(建けん久きゅう3年)、朝廷から征せい夷い大たい将しょう軍ぐん(武士の統とう率そつ者しゃとして最高の地位)に任命され、鎌倉に「武家政治」である「鎌倉幕府」が開かれ、「鎌倉時代」に入った。 (「鎌倉時代」が始まった年を、「語呂ごろ合あわせ」で「いいくに(1192)」作ろう鎌倉幕府)、と覚える)。 朝廷や譲じょう位いした太だい上じょう天皇などの政治力は依然強かったが、公こう武ぶ(朝廷と幕府)の二元的な支配体制の中で、武士の支配力は次第に強まり、「鎌倉時代」は約140年間続いた。 「鎌倉幕府」は、将軍と御ご家け人にん(将軍に仕える者)が土地を仲立ちとして主従関係を結ぶ封建制度に基づく政権だった。 「頼朝」の死後、子の「頼より家いえ」、「実さね朝とも」の時代になり、主導権争いが激しさを増す中、頼朝の妻・政まさ子この父、「北ほう条じょう時とき政まさ」が事実上の実権を握った。執しっ権けん政治と呼び、北条氏一族が幕府の政権を世せ襲しゅうした。 この間、中国の宋そうと貿易が盛んに行われ、日本からは金きん、木材、米、漆しっ器きなどを輸出し、大陸からは宋銭や陶磁器、香こう料りょうなどを輸入した。 13世紀初め、モンゴル(蒙もう古こ)高原のチンギスカン(成じん吉ぎ思す汗かん)が中央アジアから南ロシアまでを征服。後継者が大だい帝てい国こくを建設し、中国を支配し、国の名を「元げん」(1271年~1368年)と定めた。 「元」の大軍は、1274年(文永ぶんえい11年)と1281年(弘安こうあん4年)に九州北部に上陸し迫ったが、九州地方の武士が迎むかえ討うち、さらに暴風雨などのため敗退した。 元の軍の襲しゅう来らいを「元げん寇こう」(蒙もう古こ襲来)と呼ぶ。 鎌倉、室むろ町まち、安あ土づち桃もも山やま、江戸の各時代は、幕府の権力者である将軍が一貫して天皇から政治の大権を預かる形で政治が行われた。天皇に政治の実権が返還される1867年(慶応けいおう3年)の大政たいせい奉還ほうかんまでの約670年余、「武家政治」が続いた。 ◇「鎌かま倉くら文化」◇ 「鎌倉時代」には、武士や庶民の素朴で質実な気風を反映した文化が生み出された。 一方で、「鎌倉文化」は大陸から来た僧侶や商人によって「宋そう」や「元もと」の影響を受けた。 特に仏教は、厳しい戒律などを求めた天てん台だい宗しゅうや真しん言ごん宗しゅうなどと異なり、庶民を対象とする宗派が広がりを見せ、法ほう然ねんが浄じょう土ど宗しゅう(「南な無む阿あ弥み陀だ仏ぶつ」という念仏ねんぶつを唱えれば、死後、極ごく楽らく浄じょう土どへ往おう生じょうできると説く)を、親しん鸞らんが浄じょう土ど真しん宗しゅうを、日にち蓮れんが日にち蓮れん宗しゅうを、栄えい西さいが臨りん済ざい宗しゅうを、道どう元げんが曹そう洞とう宗しゅうを、それぞれ開いた。

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