日本という国
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077「近世」三節=きんせい ◇「安あ土づち・桃もも山やま時代」◇ 1542年(天文てんぶん12年)にポルトガル人を乗せた中国船が九州の種たね子が島しまに漂着し、鉄砲・火薬が入ってきた。ポルトガル人やスペイン人を南なん蛮ばん人じんと呼び南蛮貿易が盛んに行われた。 16世紀後半になると、各地に天下統一を目指す戦国大名が現れた。 「織田おだ信長のぶなが」(1534年~1582年)は1560年(永えい禄ろく3年)に「今川いまがわ義元よしもと」を「桶おけ狭はざ間ま(現在の愛知県)の戦たたかい」で破り、1573年(天てん正しょう元年)には「足あし利かが義よし昭あき」を追放して「室町幕府」を倒した。「信長」は安あ土づち(現在の滋賀県)に安土城を築いて勢力を広げ、京都から近畿、東海、北陸地方を支配した。しかし、1582年(天正10年)、京都の本ほん能のう寺じで家か臣しんの「明あけ智ち光みつ秀ひで」に殺された。これを「本ほん能のう寺じの変へん」という。 この間、「豊臣とよとみ秀ひで吉よし」(1537年~1598年)は、「織田信長」に仕え、有力な武将に出世した。「本能寺の変」を知った「秀吉」は直ちに出しゅっ兵ぺい、わずか13日後に、「山崎やまざき(現在の京都府と大阪府の一部)の合戦かっせん」で「明智光秀」を討ち、天下統一の基礎を築いた。 「秀吉」は四国、九州を次々と勢力下に置き、1590年(天正18年)に小お田だ原わら(神奈川県)の「北ほう条じょう氏うじ政まさ」を滅ぼし、「伊達だて政宗まさむね」ら東北地方の諸大名も服属ふくぞくさせ、全国を統一した。 「秀吉」は全国統一のため「検けん地ち」と「刀かたな狩がり」を行った。 「検地」は農民の田畑を測量すること。収穫できる米こめの量に換算した石高こくだか(一石は150kg)を定め、それによって、農民は税として自分の持ち分に応じた年ねん貢ぐ(主に米=年ねん貢ぐ米まい)を納めなければならない。また、大名は支配している石高に見合った軍役ぐんえき(軍事上の負担)を奉仕する体制が出来上がった。 「刀狩」は、農民と武士を分離し、農民から武器を没収し、一いっ揆き(農民が武器を使って支配者への反抗や抵抗のため行動すること)を防ぐのが目的だった。 全国統一を果たした秀吉は、キリスト教が国家体制の妨さまたげになるとして大名らのキリスト教入信を許可制にし、宣教師を国外追放した。しかし、キリスト教弾圧は不徹底に終わった。 また、「秀吉」は、1592年(文ぶん禄ろく元年)と1597年(慶けい長ちょう2年)の2回、約30万人の大軍を朝鮮に派兵した。「秀吉」の病死で日本軍は撤兵てっぺいしたが、前後7年に及ぶ日本軍の侵略は朝鮮の人々と国土に大きな爪痕つめあとを残した。「織田信長」と「豊臣秀吉」が政権を握っていた約25年間(1573年~1598年)が「安土・桃山時代」だ。 長い戦乱が収まり、人々の間に活気があふれ、新鮮で豪華な「安土・桃山文化」が生まれた。それを象徴するのが安あ土づち城じょう、大おお坂さか城じょう(後に大阪城)、伏ふし見み城じょうなどの城だ。いずれも、重層の天守閣てんしゅかくを持つ本丸ほんまるをはじめ、天下統一の力を誇る雄大で華麗な城だ。 この時代に「茶さ道どう」が確立した。また、出いず雲も(島根県)の「阿お国くに」という女性が組織した歌舞団の芸が庶民の娯楽として親しまれ、後に「歌舞伎かぶき」として発展した。

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