日本という国
82/235

078◇「江え戸ど時代」◇ 東海地方に勢力を持ち、約250万石(1石は米・150kg)の領地を支配していた大名「徳とく川がわ家いえ康やす」(1542年~1616年)は秀吉の死後、一段と力を強めた。 1600年(慶けい長ちょう5年)に「関せきヶが原はら(岐阜県)の戦い」で「石いし田だ三みつ成なり」らを破り、全国の大名を従えた。1603年(慶長8年)には朝廷から征せい夷い大たい将しょう軍ぐんに任命され、江戸(現在の東京)に幕府を開き、徳川時代(江戸時代)が始まった。そして、1615年(元和元年)の「大坂おおさか夏なつの陣じん」で、大坂城の「豊とよ臣とみ氏し」を滅ぼし全国を統一した。 その後、「徳川氏」が将軍の地位を受け継ぎ、1867年(慶応3年)に15代将軍「徳川慶よし喜のぶ」が政権を朝廷に返へん上じょうする「大政たいせい奉還ほうかん」まで約265年間、全国を支配した。 武士・将軍が政権を握る「武家政治」は「江戸時代」で終わりを告げた。 江戸幕府は幕藩ばくはん体たい制せいだった。 武士による「幕府」と、幕府から領地を与えられた「藩(大名)」が土地と農民を統治し、「米」を「年貢」(税金)として徴収する体制のことで、封ほう建けん社会という。人々の身分を「士し農のう工こう商しょう」(武士、農民、職工・職人、商人)という厳しい身分制度を設け、少数の武士が多数の民衆を支配した。 この時期、「百ひゃく姓しょう一いっ揆き」や「打うち壊こわし」が多発した。 「百姓一揆」は、年貢や諸役しょえきなどの重い負担に苦しむ農民が飢き饉きんや凶きょう作さくをきっかけに領主に抵抗する直接行動のこと。「百姓一揆」は、1787年(天明てんめい7年)に江戸、大坂(大阪)など30余の都市で起こるなど、江戸時代に3千件以上に上った。また、1782年(天明2年)の「天明の飢饉」や、1832~3年(天保てんぽう3~4年)の「天保の飢饉」では、多数の餓が死し者しゃが出た。 「打ち壊し」は市中の米こめ問どん屋やなどが襲われ、倉庫が壊されること。 東南アジアへの貿易が盛んになると、徳川家康は海外渡航する船に「朱しゅ印いん状じょう」という許可証を与え、西日本の大名や有力商人が朱印船貿易を行った。 1607年(慶けい長ちょう12年)に、豊臣秀吉の朝鮮出兵で途絶えていた朝鮮との国交を回復、朝鮮の使節が初めて来日した。長崎だけ中国船の貿易が行われた。 「徳川家康」は、キリスト教徒を一時的に黙認もくにんしたが、約70万人にも達したキリシタン(キリスト教、カトリック教とその信者)の勢力増大を恐れて、1612年(慶長17年)にキリスト教を禁止する禁きん教きょう令れいを出し、宣教師を追放したり、キリシタンを処刑したりした。 江戸幕府はキリスト教への恐怖心を強め、1639年(寛永かんえい16年)、ポルトガル船の来航を禁止し、鎖さ国こく令れいを出した。 以後、約200年、キリスト教の布ふ教きょうに関係がなかったオランダ、中国以外の外国との交渉を閉とざした。これが「鎖国」である。幕府は、「鎖国」で貿易の独占権を握っていた。 「琉りゅう球きゅう」は1609年(慶長14年)、薩さつ摩ま(鹿児島県)の「島しま津づ家いえ久ひさ」の軍に征服され薩摩藩の支配下に入り、1879年(明治12年)に沖縄県となった。 ◇「江え戸ど文化」◇ 江戸時代前期の「元げん禄ろく」文化と、後期の「化政」文化を江戸文化という。

元のページ 

page 82

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です