日本という国
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07917世紀後半、徳川5代将軍「綱つな吉よし」の頃、政治の安定と豊かな経済力を背景に、華やかさを持った町人文化が、上方かみがた(大阪や京都の周辺)で栄えた。当時の元号から元禄文化という。 上下の身分秩序と礼節を説く朱しゅ子し学がくと、最高道徳である「仁じん」を目指し、社会における人々の役割を説く儒学じゅがくが重んじられた。 江戸前期は、風俗画「浮うき世よ絵え」が庶民の間に大きな人気になった。 「絵かい画が」では、「鈴すず木き春はる信のぶ」が錦にしき絵えと呼ばれる多た色しょく刷ずりの「浮うき世よ絵え版はん画が」を創作した。 「菱ひし川かわ師もろ宣のぶ」は美人、役者、相撲などを「浮世絵」の版画にした。肉にく筆ひつ画がの「見み返かえり美び人じん図ず」が有名だ。 「浮世絵」は黄金期を迎え、「喜き多た川がわ歌うた麿まろ」の美人画が、「東とう洲しゅう斎さい写しゃ楽らく」の役者絵え・相撲絵、「葛かつ飾しか北ほく斎さい」と「歌うた川がわ広ひろ重しげ」の風ふう景けい画がが好評を博した。 「浮世絵」はモネ、ゴッホなどヨーロッパ印いん象しょう派はの画家に強い影響を与えた。 元禄期の文学を代表するのが、井い原はら西さい鶴かく、松まつ尾お芭ば蕉しょう、近ちか松まつ門もん左ざ衛え門もんだ。 「西鶴」は、「好こう色しょく一いち代だい男おとこ」、「日にっ本ほん永えい代たい蔵ぐら」など浮うき世よ草ぞう子しと呼ばれる小説を完成させた。 「芭蕉」は連れん歌がから芸術性の高い俳諧(俳句)を生み出し、多くの名句と「奥おくの細道ほそみち」などの紀行文を残した。 「近松」は人にん形ぎょう浄じょう瑠璃るりや歌舞伎かぶきの「曽根そね崎ざき心しん中じゅう」、「心しん中じゅう天てんの網あみ島じま」など、義理と人情の板ばさみから悲劇の死を遂げる男女の姿などを書いた。 18世紀の末には、文化の中心は上かみ方がたから江戸に移り、19世紀初めの「文化・文政」の頃になると、江戸の町人や庶民の文化が栄えた。これを「化政文化」と呼ぶ。 庶民には洒落しゃれや皮肉が喜ばれ、世の中を風刺した川せん柳りゅうや狂きょう歌かが流行した。 俳諧では京都の「与よ謝さ蕪ぶ村そん」、信しな濃の(現在の長野県)の「小こ林ばやし一いっ茶さ」らが活躍した。 この頃、儒教や仏教の考えにとらわれない「国学こくがく」が発達し、「本もと居おり宣のり長なが」は「古こ事じ記き伝でん」を著あらわし、日本古来の精神を説いた。 一方で、オランダ語をもとにして西洋の科学や文化を研究する「蘭らん学がく」も盛んになった。 ◇「幕末ばくまつ」と「王政復古」◇ 江戸幕府(徳川幕府)の末期を「幕末」という。 19世紀後半、産業革命によって資本主義体制を整えた欧米列強は、アジアへの侵略を開始した。アメリカは1853年(嘉か永えい6年)、ペリー・東インド艦隊かんたい司令長官が軍艦(黒くろ船ふね)4隻を率ひきいて浦うら賀が(神奈川県横よこ須す賀か市し)沖に現れ、日本に開国を迫った。 翌1854年(安政元年)、ペリーは軍艦7隻とともに再び来航し、力を背景に江戸幕府と日米和親条約を結んだ。日本は、イギリス、ロシア、オランダとも和親条約を結び、200年以上にわたった日本の「鎖さ国こく」は崩れた。

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