日本という国
84/235

080 幕府はやむなく、1858年(安政5年)に自由貿易などを定めた日米修好通商条約に調印。関税の税率決定権が日本にない不平等条約だった。 その後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと同じような通商条約を締結した。 外国に対する開国は、日本の封建社会に致命的な影響を与えた。同時に、物価上昇など、経済の混乱を来たし、庶民の生活は困こん窮きゅうを極きわめた。農民や町人の「百ひゃく姓しょう一いっ揆き」、「打ち壊し」が多発し、そうした社会を背景に、江戸幕府を倒そうとする「討とう幕ばく(倒幕)運動」が強まった。 政治情勢を安定させようとする幕府は、「朝廷(天皇=公)」と「幕府(武家政権)」が協力する「公こう武ぶ合体がったい」運動を進めたが、その中で「尊そん皇のう攘じょう夷い」を掲げる長ちょう州しゅう藩はん(山口県)の動きが活発になった。 《尊皇攘夷=天皇の絶対的権威を認めて、皇室を崇拝すうはいする思想が「尊皇」。 開国に反対して、外国人を入国させず、外国を排撃する考え方が「攘夷」。 外圧が増大するにつれて、二つが結びついた「尊皇攘夷論」が広がった》。 だが、「攘夷」が困難だと悟さとった武士たちは、逆に欧米から学ぶ姿勢に転じた。そして、幕府を倒して新しい政治の実現を望んだ。 「高たか杉すぎ晋しん作さく」、「桂かつら小こ五ご郎ろう」らの藩はん士しを中心とした長州藩は、朝廷と幕府の双方につながりの深い薩さつ摩ま藩はん(鹿児島県)と軍事同盟の密約・「薩さっ長ちょう連れん合ごう」を結んで「討幕」の動きを強めた。 薩摩・長州の両藩が武力による「討幕」を決意したため、土と佐さ藩はん(高こう知ち県けん)の「坂本さかもと龍りょう馬ま」(1835年~1867年)らは1867年(慶応3年)、徳川15代将軍「慶よし喜のぶ」に政権を朝廷に返上するよう申し出た。 「徳川慶喜」はこれを受け入れて、政権を返上する「大政たいせい奉還ほうかん」の文書を朝廷に提出した。 幕府側の巻き返しの動きもあったが、討幕派は政変を決行した。 朝廷による「王政おうせい復ふっ古こ」(武家政治を廃止し、天皇による政治に戻す)を宣言し、天皇を中心とする明治新政府を樹立した。

元のページ 

page 84

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です