日本という国
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081「近代」と「現代」四節=◇「明めい治じ維い新しん」◇ 「幕末」から明治初年にかけての政治体制の変更を「明治維新」という。 日本は、封建国家から近代市民国家へ生まれ変わった。 一方で、近代天皇制がスタートしたものの、日本は激動の時代に突入した。 1868年(明治元年)1月、幕府側は「徳とく川がわ慶よし喜のぶ」を擁ようして新政府に反撃したが敗やぶれ、「慶喜」は京都から江戸に逃のがれた。新政府は「慶喜」を朝廷の敵とみなして、江戸征伐せいばつの軍を出し4月に幕府があった江戸を制圧した。 その一カ月前には、天皇がすべての神に誓約する「五ご箇か条じょうの誓せい文もん」を公布し、「広く会議を興おこし、万ばん機き公こう論ろんに決すべし」、「旧来の陋ろう習しゅう(悪い習慣)を破り、、、」など、明治新政府の五つの基本政策を示した。 そして、太だ政じょう官かんを中心とした政府組織を作り、7月に「江戸」を「東京」と改め、9月には年号(元号)を「明治」とし、「一代の天皇に一つの元号を用もちいる」一世せい一元の制度を整えた。 翌明治2年(1969年)には東京遷せん都とを果たし、首都を京都から東京に移した。 明治政府は、1869年(明治2年)6月に「版籍はんせき奉還ほうかん」(各地の大名が領地・領民を天皇に返還すること)を命じ、1871年(明治4年)7月には「廃はい藩はん置ち県けん」(全国の藩を廃止して、府県制度に改める)を断行、中央集権を実現した。 明治政府の基礎は固まったが、事実上、薩さつ摩ま、長ちょう州しゅう、土と佐さ、肥ひ前ぜん(佐賀県と長崎県の一部)の四つの藩(薩さつ・長ちょう・土ど・肥ひ)の出身者が政府の実権を握ったため、「藩閥政治」と呼ばれた。 政府は欧米の先進資本主義国に対抗するため、富ふ国こく強きょう兵へいを目指し、近代産業の育成を図りながら、新しい制度の確立を目指した。 1872年(明治5年)1月に、満20歳になった男子を強制的に兵士とする徴ちょう兵へい令れいを公布し、軍事的基礎を築いた。 また、欧米の文化を積極的に取り入れ、官営の郵便制度が発足し、1872年(明治5年)12月に太たい陽よう暦れきを採用し、一日を24時間とし、日曜休日制が実施され、日刊新聞や雑誌が東京を中心に発行された。 生活や文化が近代化された風潮を「文ぶん明めい開かい化か」と呼び、洋服や、髪を短く切りそろえた「ざんぎり頭」が広がった。「ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と歌われた。 明治政府が朝ちょう鮮せんに国交樹立を求める中、1873年(明治6年)、薩摩藩士「西さい郷ごう隆たか盛もり」や土佐の政治家「板いた垣がき退たい助すけ」らが武力を背景に征韓論を唱えたが反対にあい、「西郷」らは下野げやした。2年後の1875年(明治8年)、日本軍艦が上陸しようとして衝突した江こう華か島とう事件を機に、政府は不平等条約である日朝修好条約を押し付け、朝鮮を開国させた。 明治政府は領土の確定に努め、1875年(明治8年)にロシアと樺から太ふと・千ち島しま交こう換かん条約を結び、樺太の権利をロシアに譲り、日本が千島全島を領有した。

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