日本という国
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082イギリス、アメリカとの間で帰属が明確でなかった小お笠がさ原わら諸しょ島とうを日本の領有とした。 1879年(明治12年)に琉りゅう球きゅう藩はんを廃止して沖縄県を設置したことで、琉球王国は滅亡した。 「明治維新」後の改革で打撃を受けた士族は各地で反乱を起こした。 1877年には、鹿児島県で「西郷隆盛」を指導者とする最大の反乱「西南せいなんの役えき(西南戦争)」が起きたが、政府は約半年後に鎮定ちんていし、これを最後に、明治政府に対する反乱は収まった。 ◇「大だい日にっ本ぽん帝てい国こく憲けん法ぽう」と「議会」◇ 1874年(明治7年)、郷里の土佐(高知県)に帰った「板いた垣がき退たい助すけ」らは「自由」と「政治への参加」を求める自由民権運動を起こした。イギリスやフランスの民権思想の影響を受けた運動は、政府が弾圧を強める中、国会の開設を認めさせた。 「板垣退助」は1881年(明治14年)に自由党を結成、翌年には「大おお隈くま重しげ信のぶ」がイギリス風の議会政治を掲げる立憲改進党を結成した。 1882年(明治15年)に、中央銀行である日本銀行が設立された。 1885年(明治18年)には太だ政じょう官かん制せいを廃止して内閣制度が誕生し、「伊い藤とう博ひろ文ぶみ」が初代の内閣総理大臣(首相)になった。 1889年(明治22年)2月11日には、天皇が定めた欽きん定てい憲けん法ぽうである大日本帝国憲法(明治憲法)が発布された。天皇は「統とう治ち権けんの総そう攬らん者しゃ」(権力を一手に掌握している者)となり、帝国議会、内閣、裁判所は天皇の統治下に置かれた。陸海軍の統とう帥すい権けん(軍隊の最高指揮権)は天皇直属となった。 国民に厳しい制限はあったものの、言論、出版、集会、信教などの自由が認められた。一方で、憲法発布の翌年には教育勅ちょく語ごが発布され、「忠君愛国」の道徳を基本とする国民教育が始まった。 帝国議会は、「貴族院」と「衆議院」の二院制で、「貴族院」は貴族と華族、さらに天皇が任命した議員から成り、「衆議院」は選挙で選ばれた議員で構成された。 第一回の衆議院議員の総選挙は1890年(明治23年)に行われた。 選挙人は「満25歳以上の男子で、直接国税15円以上の納税者」に限られたため、有権者は総人口の1%超に過ぎなかった。この時の首相は「黒くろ田だ清隆きよたか」。 日本はアジアで唯一、「憲法と議会」を持つ近代的立憲国家だった。 ◇「日にっ清しん戦争せんそう (中ちゅう日にち甲こう午ご戦争)」と「日にち露ろ戦争」◇ 日本は「朝鮮」を勢力下に置こうとしたため、「朝鮮」を勢力範囲とみなしていた「清しん国こく」と対立した。 1894年(明治27年)、朝鮮国内で「減税と排日はいにち」を要求する農民の戦争(甲こう午ご農民戦争)が起こり、朝鮮政府は「清国」に援軍を要請。日本が「朝鮮」に侵入したため「日清戦争(中日甲午戦争)」が始まった。日本が勝利し、両国は1895年(明治28年)4月、山口県下しもの関せきで、「遼りょう東とう半はん島とう、台たい湾わん、澎ほう湖こ諸しょ島とうを日本に譲る」などの下関条約(馬ば関かん条約)を結んだ。

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