日本語交流はじめに

〝スイッチ〟を入れてくれた中国人留学生
「胡東旭(フートンシュウ)」君

 1988年9月、大森和夫が政治部記者として留学生問題を取材していた時、北京農学院を卒業して東京大学大学院に留学していた胡東旭君(当時26歳)に出会った。彼は奨学金がもらえず、40以上のアルバイトを経験しながら留学生活を送っていた。
「経済的に苦しいのは我慢出来ますが、日本のことをたくさん知って、日本を理解したいのに、それが出来ないのが残念です。日本が嫌いになって帰国する友達や、不満を持って日本で勉強している留学生も少なくないのが現実です」
 27年半前に出会った一人の中国人留学生・「胡東旭君の一言」が、私どもの「日中・日本語交流活動」の〝スイッチ〟を入れてくれた。「折角、日本に留学して日本語を勉強している外国の若者が、日本を嫌いになったり、日本に批判的な気持ちになったりして帰国してしまうのは、日本にとって大きな損失。何とかしなければ!」という思いが募った。“日本語”で、日本理解を深めたい」という思いが募った。

スイッチを入れてくれた中国人留学生「胡東旭(フートンシュウ)」君
左・1988年9月。東京大学大学院農学系栽培研究室で稲の研究をする胡東旭君
右・1989年6月。留学生と。右から2人目が胡東旭君(国際交流研究所で)

1989年3月。「季刊誌『日本』」の創刊号(26頁)
1989年3月。「季刊誌『日本』」の創刊号(26頁)

中国人留学生・胡東旭君に出会って約半年後の1989年(平成元年)1月、新聞社を辞めた。48歳だった。夫婦の「日中・日本語交流活動」は、1989年3月、手作りの「季刊誌『日本』」の発行と寄贈から始まった。
 何度かくじけそうになった私どもに、日本語交流活動を継続する力を与えてくれたのが、日本語を学ぶ学生たちの「明るい笑顔」「日本への熱い思い」だった。
 私どもは、中国の多くの大学生が「歴史の痛み」を背負いながら、「日本語を学んで、日本という国と日本人を理解したい」と頑張っている姿を見て、彼らに感謝し、応えなければならない、と痛感した。そして、日本人として「中国を侵略したこと」を率直に謝罪することの大切さを教えられた。