日本語交流活動内容

活動の”あれこれ”

〝手書き〟でスタートした「教材作り」

「季刊誌『日本』」の創刊号から3年間(「十二号」まで)は、すべて原稿は手書き。漢字に「ルビ」を付けて、『四季の言葉』や『昔話』には、イラストを描いた。印刷所からのゲラ刷りを2~3回、赤字で「朱」を入れる校正が2~3回。原稿をワープロで書けるようになったのは4年後の1992年から。それでも、「ルビ」を付けるのは手書き。「日本語教材【日本】」作りの頃からパソコンによる原稿書きや「ルビ」付けが出来るようになり、作業能率は格段にアップした。

郵送の「荷造り」

「季刊誌『日本』」を中国の大学などに郵送する作業も二人だけ。毎号、印刷所から「50冊・100冊の包み」が約500個、自宅に届く。国内の大学や日本語学校、中国など海外に郵送(海外は船便)するため、「200冊~30冊」単位で梱包。郵送伝票を貼り付け、台車に乗せて、近くの郵便局へ数十回に分けて運ぶ。この作業が年4回。4万冊発行した創刊号は、国内の大学などと、中国、韓国、タイ、インドネシアなど15ヵ国の大学、合計235ヵ所に郵送した。
湖南大学(湖南省長沙市)日本人教師・梅田星也先生の礼状。(1993年8月)
「毎回思うのは、ご送付いただく「季刊誌『日本』」の梱包の素晴らしさです。二重にしっかりと紐がかけてあり、全く損傷がなく届きます。学生に配るのも、完全な新本で渡すことができます」

〝共に学ぶ〟気持ちで

私どもは、この「活動」を始める時、「ボランティアという言葉は使わない」ことを決めた。「無償の社会活動」ということに、「おこがましい」、「堅苦しい」という感じを持っていた。そして、「責任」や「義務」を伴うと負担になって、気楽に活動できなくなる、と考えたからだ。
そこで、「活動を通して、自分たちの人生を豊かにしたい」と、留学生や中国の学生たちと〝共に学ぶ〟気持ちを忘れないように努めた。
『日本語教材』作りや『日本語作文コンクール』の開催、『アンケート』の実施など、〝二人だけ〝の活動は、想像以上の苦労の連続だった。しかし、「忙しい」と思うことは「心を亡くす」こと、と何かの本で読んだことがあり、あえて、「忙しい」という気持ちを持たないように心掛けて、中国の学生と共に活動を続けた。

「中国人の歴史観」を実感、そして、感動!

「中国の人たちにとって、日中戦争が心の深い傷になっている」ことを自分の目と耳で直接体感出来たことなど、学ぶことが多かった。それを実感したのが『日本語作文コンクール』の作文や、『アンケート調査』の回答だ。
一方で、『日本語作文コンクール』の表彰式などで出会った学生たちの晴れやかな笑顔、私どもが作成した『日本語教材』を手にして喜ぶ学生たちの写真、『アンケート』に書いてくれた日中友好を願う本音、等々、その一つ一つが、私どもに大きな感動を与えてくれた。
日中関係がギクシャクしている時も、私どもを〝熱烈歓迎〟してくれた中国の大学生と教師(日本語科)が日中友好を支えていることを実感した。中国の学生と歩んだ「日本語交流」の「楽しさ」が苦労を充実感に替えてくれた。楽しみながらの活動は少しも苦にならなかった。今も、たくさんの中国の人たちと〝普段着の交流″が続いている。

田中首相の「見識と決断」に感銘

1972年の日中国交正常化は、中国の周恩来総理〈当時〉の英断と、日本の田中角栄首相〈当時〉の強い政治力がなければ実現しなかっただろう、という思いが強い。
1950年の朝鮮戦争で、中国と米国の関係が悪化し、日本は1952年に台湾を選択し日華平和条約を締結した。日本では、台湾に好意的な親台派の政治家が力を持ち、東西冷戦下で、中華人民共和国に対して嫌悪や不信感を抱く日本国民も少なくなかった。(大森和夫は新聞記者として)田中氏が自民党の幹事長時代、通商産業大臣、首相の途中まで約3年間、いわゆる「田中番記者」として田中氏を取材。「日中国交回復」を最大の政治課題と考えていたことは身近に感じていた。そして、1972年7月に首相に就任すると同時に、国交回復を熱望する自筆

日中国交回復を真剣に願う田中首相の思いが中国側に通じ、その年の9月、周恩来総理の招待で田中首相が訪中、歴史的な日中首脳会談が実現した。そして、9月29日、両首脳が「日中共同声明」に調印した。それに基づいて、日本はそれまで国交のあった台湾に断交を通告。当時の田中首相の政治的見識と決断力に感銘を受けた。さらに、1978年8月に日中平和友好条約が調印された時は、当時の福田赳夫首相を取材する「官邸クラブ」を担当し、日中友好関係の進展過程を新聞記者として体感した。
その経験が27年間の「日中・日本語交流」活動の基盤になっている。

活動開始から3年後に「中国」との交流に重点

1989年3月の「季刊誌『日本』」創刊号は、国内の大学以外には、15ヵ国の大学など19ヵ所に郵送したが、中国は5つの大学に50冊ずつ。中国の大学に知人はいなかったので、留学生に大学の所在地を聞いて、そこの「日本語学科」宛に、一方的に送ったのが始まり。その後、中国の大学(日本語科)の教師から「日本を知る素晴らしい季刊誌です」、「私の大学にも送ってほしい」という手紙が次々と届いた。創刊から1年10ヵ月の間に中国の大学の教師や学生からの手紙や葉書は約200通に上り、その後も中国からの便りは増えていった。

※1990年9月・朴澤龍先生(延辺教育学院〉からの手紙
  「日本へ行く機会のない日本語学習者の大多数が、季刊誌『日本』を通して日本の政治、経済、文化などを勉強し、理解しています。季刊誌『日本』は、新しい内容がいっぱいで、日本語を学ぶ教材、日本を知る教科書だと思います」

中国の大学へ送る「季刊誌『日本』」を少しずつ多くし、3年目に入った1991年に「中国の大学」に重点を置くようになった。そして、3万冊発行した1993年12月の「二十号」は、中国の71大学と個人に計7,000冊以上寄贈した。
 1992年の南開大学訪問を機に、中国の多くの大学で、「季刊誌『日本』」が教材として活用されていることを知った。中国の大学へ送付する「季刊誌『日本』」の冊数を増やし、交流が深まるにつれて、中国重点の活動に移っていった。

中国の“三人の恩人”

「日本語教材【日本】」の発行・寄贈や『日本語作文コンクール』の「きっかけ」を作ってくれたのが王健宜先生だ。若手教師として青森大学に短期留学した王先生と知り合ったのは、「季刊誌『日本』」を発行した直後だった。1992年を皮切りに、3回、南開大学を訪問。「日中友好のために、中国の日本語教育は『語学訓練型』から『文化理解型』に転換しなければなりません」と熱く語る王先生との出会いが、私どもに大きな力を与えてくれた。
曲維先生には、「季刊誌『日本』」が縁で、1993年に遼寧師範大学に招待してもらって以来、何度も、日本語科の学生との交流会を開いてくれた。
 1997年、2004年発行の『日本語教材【日本】』では、授業で使いやすいように、本文の各章の後に、『言葉の注釈』と『質問』」を付けてもらった。『アンケート調査』では、用紙の回収や郵送で、遼寧師範大学の教師・職員と大学院生らの協力を得た。
 胡振平先生には、日本語科のある中国の大学で組織する中国日語教学研究会の会長として、多くの大学に『日本語作文コンクール』の参加を呼びかけてもらい、各版の『日本語教材』を授業で活用してもらいように、働きかけてもらった。
 三人の先生には大半の『日本語作文コンクール』で、最終審査員をお願いした。

「南京大虐殺」の記述で中国の出版社と議論

「季刊誌『日本』」を中国など外国の大学に寄贈する時、「本の代金より、海外への郵送料が高いこと」が頭痛のタネ。中国で出版すれば、出版費用も中国の各大学に寄贈する郵送料も割安になる。そこで、1997年12月、遼寧省大連市の大連出版社から出版し、2004年11月からは北京市の外研社(外語教学與研究出版社)から出版し、そこから中国各地の大学に郵送することにした。
 「原稿と写真」だけでなく、「ルビ付け」もパソコンで処理できるようになったものの、「ゲラ」の校正は、外研社から「全文」をパソコンの「PDF」で送ってもらい、それをコピーして直し、それを外研社に送信する方法のため、「細かい箇所の直し」をパソコン上で処理する作業はかなり煩雑になった。

「南京事件」の記述に、出版社から「クレーム」

北京の「外研社」から出版することで、【歴史(近代と現代)】の「日中戦争」などの記述について、いくつかの点で出版社からクレームがついた。
 「南京大虐殺」の犠牲者の数について、最初の原稿は、「いろいろ議論があるが、『二十万人から三十万人』と言われている」と書いた。
 これに対して、外研社の日本語部・責任者から「中国の出版社は全部国営です。中国の出版社の言論は中国政府の言論と一致しなければなりません。『三十万人以上の犠牲者』に直すか、『犠牲者の数は、二十万人から三十万人』を削除しなければ、出版できない」という回答がきた。何度もやり取りを繰り返し、「日本人が作った日本語教材を中国の学生に読んでもらう」ことを優先して、『日本軍は残(ざん)虐(ぎゃく)な手段で、非(ひ)戦(せん)闘(とう)員(いん)の婦(ふ)女(じょ)子(し)を含む夥(おびただ)しい数(かず)の中国人を殺害した』という「記述」を提案したところ、外研社も最後は了解してくれた。
 最初に原稿を出版社に送ってから9カ月後に出版にこぎつけた。

NHK「ラジオ深夜便」の反響

2012年10月に二日間、NHKの「ラジオ深夜便」の「明日へのことば」で話した「日中民間交流の二十四年」について、以下のような反響があった。
「日中友好に個人で貢献した活動に感動した」、「ご夫婦で長い間、ご苦労様でした」、「『三つの感謝と一つの謝罪』の話に感銘を受けた」、「お二人の間で『ボランティアという言葉を使わない』というお話は特に印象的でした」、「中国の反日デモなどを報道で知るにつけ、お二人の活動がますます意義深く重要だと改めて思います」など。

☆以下は、大阪府豊中市の芦田悦雄氏(72歳)のメールの一部。(原文)
「二日間、ラジオからのお話を聴いて、感動いたしました。よくぞ長い間私財を投じて日中の草の根の交流に尽くされました。その熱意には言葉もないくらいに敬服いたします。心の通じている中国人は、どんなに政治の摩擦が起きようとも、日本人への信頼は揺るがないと思います。そのような人が一人でも多く中国に増えてほしいとの願い、同感しました。また、奉仕じゃない、とのお考えにも深く感銘を受けました。私は、退職後三年間内モンゴルの砂漠の小さな町で日本語を教えました。当時小泉首相が靖国を参拝する度に、身を縮めて外出したことを思い出しました。これからも日中の草の根の交流に何か役立ちたいとの思いを、強く持たせていただきました」

〝マイペース〟を守って!

活動を始める時、「活動は夫婦で出来る範囲にとどめる」ことを決めた。個人の活動として手を広げ過ぎて人に迷惑を掛けることになる、と考えたからだ。
 27年間、〝マイペース〟を守ってきたのは、健康上の理由もあった。
 大森弘子は昭和61年(1986年)頃、腰痛がひどくなり、練馬区の病院で「椎間板ヘルニア」と診断され、医者からは手術を勧められた。しかし、術後の不安から「リハビリと薬」の治療を選択。その後、腰、膝、足の裏(筋膜炎)、足の指(モートン病)の痛みが常態化した。水中歩行や電気治療のリハビリと薬が欠かせない。
 大森和夫は平成16年(2004年)5月、脳ドックで未破裂脳動脈瘤(約4㍉)が見つかり、「形もいびつなので、手術が望ましい」(東京都江戸川区・森山記念病院)と宣告された。「活動を止めようか」と、約1ヵ月悩み続けた。そして、「半年ごとの定期検査・薬と毎日1万歩で血圧を下げる」ことで、「手術・の回避」を決断。その年の12月に上海市の華東師範大学で行なった「第十二回・『日本語作文コンクール』」の表彰式で、「『日本語作文コンクール』は今回で終わります」と宣言。数人の学生が「長い間ご苦労様でした」、「残念です」と涙を流しながら声を掛けてくれ、胸が熱くなった。幸い、その表彰式に参加していた日本僑報社の段躍中さんが、その意義を感じて、『日本語作文コンクール』を〝引き継いで〟くれた。
ただ、「日本語の作文を書く力を高めるためのコンテストを!」という中国の大学の教師の要望が多く、段躍中さんの『日本語作文コンクール』と競合しない形で、「中国の大学院生『日本語作文・スピーチ・討論コンテスト』や『日本語教材【日本】・感想文コンテスト』などを実施した。
 大森和夫は〝マイペース〟を守ることに努めてきた。順天堂東京江東区高齢者医療センターの処方に従って、脳神経外科の経過観察、前立腺肥大や高血圧の治療、大腸ポリープの切除、薬の服用と「毎日・1万歩!」で健康管理をしながら、『日本語教材』の作成と寄贈活動などを続けてきた。