日本語交流活動内容

1989年3月~1997年3月 「季刊誌『日本』」
「日本の国と日本人」を日本語で学ぶ情報誌(各号26~38頁)
「1号~33号」8年間に約120大学に、約25万冊寄贈

左・1989年3月発行の「季刊誌『日本』」創刊号(26頁)。27年間の活動の「出発点」。右・創刊号に、当時の竹下首相から寄せられた「祝辞」の一部  (以下、抜粋。原文のまま)

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「25年にわたり朝日新聞記者として活躍された大森和夫君が、このたび、自ら国際交流研究所を設立して留学生問題に取り組まれることを知り、大変喜ばしく、力強いものを感じております。世界の平和と発展をめざすためには、同君も訴えているように『異なる国の人と人との間の相互理解、そして人の交流、物の交流、こころの交流』が必要だと、私自身も考えているからです」「政権担当以来、私は『世界に貢献する日本』という姿勢を貫いてきましたが、とりわけ留学生交流の推進については重要な政策課題と位置づけ、できる限りの努力を続けてまいりました」(大森和夫が新聞社を辞めて、「日本語交流活動」を始めたことを知った当時の竹下登首相が「祝辞」を寄せてくれた。政治部・記者として、日頃取材をしていた)。

1989年6月「2号」(26頁) 9月「3号」(30頁) 12月「4号」(34頁)

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「5号」(1990年3月)の「表紙」の題字と目次の一部

1990年3月「5号」(34頁) 6月「6号」(34頁) 9月「7号」(38頁)

12月「8号」(38頁) 1991年3月「9号」(38頁) 6月「10号」(38頁)

9月「11号」(38頁) 12月「12号」(38頁) 1992年3月「13号」(38頁)

6月「14号」(38頁) 9月「15号」(38頁) 12月「16号」(38頁)

1993年3月「17号」(38頁) 6月「18号」(38頁) 9月「19号」(38頁)

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左・1993年12月「季刊誌『日本』」・「20号」(38頁)。右・細川首相(当時)の巻頭メッセージ (以下、抜粋。原文のまま)

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「創刊五周年を迎えられた季刊誌『日本』が皆さんの勉強や研究に大いに役立っていることを知って、大変喜んでいます。『日本』を発行している国際交流研究所の所長・大森和夫君と私は、一九六三年〈昭和三十八年〉に同時に朝日新聞社の記者になり、大森君は大分支局へ、私は鹿児島支局へ赴任しました。私は社会部記者から途中で政治の世界に入り、大森君は政治部記者から国際交流のボランティア活動を始めるため、五年前に朝日新聞社を退職し、別の道を歩んでいます」

「21号」(1994年3月)の「表紙」の題字と目次の一部

1994年3月「21号」(38頁) 6月「22号」(38頁) 9月「23号」(38頁)

12月「24号」(38頁) 1995年3月「25号」(38頁) 6月「26号」(38頁)

9月「27号」(38頁) 12月「28号」(34頁) 1996年3月「29号」(34頁)

6月「30号」(38頁) 9月「31号」(34頁) 12月「32号」(34頁)

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「季刊誌『日本』」が縁で、東北財経大学(遼寧省大連市)を訪問 左・1993年10月・二年生17人が日本語で披露してくれた「桃太郎」の劇 右・1996年4月・学生と交流。(中央は方愛郷先生)

1997年3月・「33号」(最終号。34頁)